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劇場版『ガンダム GのレコンギスタⅠ』を振り返る

※以前自分のブログに書いた記事を移したものです。

劇場版Gレコの1作目を見終えたので、自分が思うことを文章として書きます。

分かりやすさを意識した作り

全体的にテレビ版よりこの印象が強かったです。

特にキャラクターの言動に顕著でひたすら様々な出来事が起き続け、キャラクターがそれをどう受け止めているのかが描写されずに物事が進んでいたテレビ版に対し、このキャラクターはこの時どう思っていたのかが描写されていました。

それが顕著なのがカーヒル死後にベルリの前にアイーダが姿を現す場面で、テレビ版では踊りながら姿を現したのに対し、劇場版でははっきりと「人殺し」と言うところ。

今思うとテレビ版の行動はアイーダなりの強がりと解釈できますが、当時は何やってんだろこの人というのが所見の感想でした。

劇場版ではベルリに対する憤りがはっきりど出ていているので、どんな感情なのかがスッと入ってきました。

他にも序盤の戦闘シーンでラライヤがGセルフから飛び出し、デレンセンに保護されるまでの流れがしっかり描写されています。

そのためGセルフは宇宙海賊へ、Gセルフが背中に背負っていた大気圏用バックパックとラライヤはキャピタルへ渡ったことが分かるようになっています。

またクンパが流れ者だという噂を出すことで、クンパという人物を描写するための伏線も用意されています。マスクが初登場した場面で機械的に歩くことでマスクという人物を演出していました。

ベルリの言動

私がテレビで最初に躓いたのが3話のベルリの言動でした。そこがどうなるのかが今回の映画で最も気になりましたが、こちらはあまり変化はありませんでした。

もちろん心情描写は付け加えられています。メガファウナ内で自分がカーヒルを撃たなければアイーダは危なかったのに、そのアイーダはそのことについて何も思ってなさそう様子なのにはっきりと不満を感じていました。

ですがこれはメガファウナに着いた後のことです。

その後モンテーロに乗ったクリムが襲撃した際、Gセルフに乗ろうとするアイーダにベルリはついていき、ノレドとラライヤも同行します。そのことをクンパは見逃しました。

まずここが最初の引っ掛かりです。ベルリ達でGセルフに乗り込みますが、操縦するのはアイーダで4人を乗せたまま特に騒動も起きず戦闘に参加し、交戦中のクリムにコンタクトをとってメガファウナへ帰ります。

何故ベルリはアイーダの好きにさせたのか?

躓いたのはここですが、劇場版でも変わりませんでした。

後に宇宙海賊の調査するつもりだったことが分かりますが、この時点では何故ベルリはアイーダに操縦させたままで、その状況をノレドも受け入れているのかについて、2人がどう思っているかの描写はありません。

ベルリはアイーダが乗ったGセルフを拘束することができたので、それが成功体験になってしまったと捉えることもできますが、この辺りについては特に描写はありません。

誰もいないところで1人ではしゃいだりすれば違うのですが、そういうのはなかったですね。

心の声でキャラクターの心情に触れる回数が増えているからこそ、ここにも心の声を入れて欲しかったです。

それが難しくてもノレドに「抵抗しなかったのはアイーダに負い目があるからだ。でもそんなもの持つ必要なんてない」というセリフがあればベルリの心情をよりはっきりと描写できたと思いますね。

ここは入れて欲しかった

劇場版は5部作で1作目はテレビ版の1~5話までの内容のため、90分では尺が足りないため削られた場面もあります。その中には削らないでほしかったものが2点あるのでそれを理由付きで並べます。

クリムの「ジャベリンありがとうね」

クリムというキャラクターが短時間でどういう魅力があるか描かれているというのもありですが、同時に戦死したカーヒルのことを「あの年でふざけているから!」と否定的な言葉で罵しりました。

この台詞はメガファウナ内でのカーヒルの評価の説明にもなっているのが主な理由です。カーヒルを殺したベルリがメガファウナにいても、そのことを指摘し問題視するのはアイーダだけでした。

メガファウナの乗組員からしてみれば、カーヒルは宇宙海賊の正体であるアメリア軍総督の娘に職場で手を出す人間なのですから、周囲がいい感情を持つはずがありません。

このことに少しでも劇中で触れていれば、アイーダ以外から大きな反発もなく受け入れられるベルリの描写の手助けになったでしょうが、富野監督は子供に見てほしいと言っているので、分かる年になったら分かってほしい演出にしたのだと解釈しています。

デレンセン帰投

テレビ版の4話ですがデレンセンの部隊はメガファウナに攻撃を仕掛けて失敗し、キャピタルへ戻るのですがその途中でカット・シーを海に落とす場面があります。

クリムがモンテーロをサブフライトシステムという飛行する平面型の乗り物に乗せ、キャピタル・タワーに近づいても戦闘には参加させていませんでした。

これは戦闘にサブフライトシステムを参加させ、キャピタルに戻る途中海へカット・シーを落としたデレンセンの対比になる場面でした。

落とした理由は劇中では明らかになってませんが、私はサブフライトシステムを戦闘に参加させたため帰りの燃料が減ってしまい、確実に帰るため荷物になるモビルスーツを捨てたと捉えています。

キャピタル・アーミィに自分達から攻撃を仕掛ける知識や経験のなさが判明する描写なので削ってほしくなかったですね。

初見でも映画として楽しめるか?

テレビ版を見たことがある人間としては楽しめました。でもこれは予備知識があるから楽しめたのであって、テレビ版を途中で脱落した方や初見の方が楽しめるかとなると疑問があります。

ラライヤが何者でどこから来たのか、ベルリとアイーダのアイリスサインとは何か、Gセルフをベルリとアイーダが動かせる理由、ルインがマスクとしてベルリの前に敵となって現れたのは何故なのか。

そういったものが何一つ明らかになりません。

宇宙海賊では自分しか動かせなかったGセルフをベルリに奪われ、パイロットとして何もできずドニエルに言われて仕方なくベルリにお礼を言い、そのことを悔しがるアイーダで終わります。

富野監督はこのインタビューでマーベルの映画シリーズを引き合いにして、映画を作ってシリーズを続けるのは当たり前で5部作は特異な例ではないといった発言をしています。

マーベルの映画は出来や評判の差はあれど、どれも1つの映画としてちゃんと終わりますが、GレコⅠは前後編の前編と言われたら納得できてしまうところで終わります。初見の人がどう受け取ったのか聞いてみたいですね。

私は初見なら2作目や3作目が切りのいいところで終わったのなら、そこから見ることをお勧めします。

それじゃあ面白いのかという話になるのですが見どころはあります。

ベルリ救出を口実に軍備を拡張するキャピタル、存在や言動が清涼剤になるクリム、カオスとしか言いようのない終盤の戦闘などはこのアニメにしかない魅力です。

アイーダは富野監督の作品によく出てくる無鉄砲なお姫様で、苛ついている時の声の出し方が劇場版Zガンダムでクワトロ達に親への不満をぶちまけるカミーユのようでした。

往年のファンならそういった部分でも楽しめるでしょう。

戦闘中のモビルスーツの下を移動するベルリや、カーヒルの襲撃時に割れた窓の破片が刺さっていたかもしれないノレドのような、一歩間違えたら危なかった場面もさらっとあることも忘れてはいけません。

拘束された状態でも寝てしまうアイーダのようなGレコにしかない描写ももちろんあります。

アイアンマンやキャプテンアメリカを最初の映画だけで評価できないように、この作品だけで劇場版Gレコは評価しきれません。

今はまだ独自の魅力のあるとしか言えませんが、これからどう変わっていくのかそれとも変わらないままなのか、次作を楽しみにしています。

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